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私的プロレス論      王者の資格 2019~2020

 どんな業界においても、頂点の座に君臨する者を人は王者と呼ぶ。ではプロレス業界においてのチャンピオンとは、どんな意味があるのだろうか?貴方は本当の意味で理解しているだろうか?ことプロレス界においては、“ただ強ければ王者になれる”という簡単なものではない。そこには業界特有の重要な役割、そして目に見えない重責が担われているのである。  知っての通り、現在のプロレスという分野においては統一組織がある訳ではなく、各会社=団体それぞれに王者が存在している。しかも各団体に王者が複数いるため、インディー団体も含めれば、その数は日本マットに限定しても星の数ほどいるのではないかと思われるほど、乱用乱立されているのが現状である。  ではなぜ、そんな状況になってしまったのか?それはプロレス団体が利潤を求める興行会社であり、興行の看板となるチャンピオンシップを多発したい、がしかし、それでは一人の選手のみに負担がかかってしまいかねないために、複数の王座を保持することで興行のウリにしようという目論見があるからだと思われる。  本来、誰が一番強いのかを証明することがチャンピオンを認定する意味なのだから、そのチャンピオンが何人もいる状況というのは根本的にはおかしな話なのだが、過去の歴史においても、商業的な必要性から、一団体に何人もの王者が存在する状況が生まれ、統一や封印で数が減っても、また新設や別団体から奪取してくることで出ては消え、出ては消えと何度も同じことが繰り返されてきた。  正直、理想論からいえば、体重による階級分けは必要だと思うが、それ以外には私は存在するべきではないと思う。ヘビー級とジュニア・ヘビー級、そのシングルとタッグ王座だけが存在することが、一番の理想だと思う。但し、現代のプロレス界は様々なスタイルに区分けされ、デスマッチや総合格闘技のような従来のプロレスルールでは裁けない試合形式が生まれてきて、またそれが認知されていることも事実。だからこそ、その四種類だけで区分けしていいのか、という問題が生じてきた。  例えば吊るされたベルトを奪うとか、複数の選手がタッチ権などもなく同時に闘うなど、まさしくゲーム性の高い、本来の強さを競い合う闘いとは異なる試合形式がファンに認知され、これがタイトルマッチでも普通に行われるようになってきている。そうなった場合、本来、強さを競っているはずの王座が、他人の力や一瞬の運で左右されていては王座そのものの価値が問われてくる。そもそも、王者が直接勝敗に関わらずに勝負が決するなど完全にナンセンス。挑戦者が王者に勝ってこそのチャンピオンの価値、そんな当たり前の原理が現代は通用しなくなっているのである。  またデスマッチにしても同じ。本来は鍛え上げてきた肉体、磨きあげてきた技術、極限まで高めた精神力によって競い合うはずのプロレスという闘いが、刃物や爆破、火力や凶器などで決着していては、日々の鍛練は何だったのか?ということになる。そもそも、デスマッチという試合形式は遺恨のなれの果ての決着戦として行われていたものが、いつの間にか市民権を得て日常的に行われるようになってしまった。これはプロレスそのもの概念を崩す行為とも思えるが、それでもファンに支持されている以上、その頂点の座、王座を設定したがるのも自然の成り行きだ。  そんな現状を考えると、既存のベルトを賭けて特殊なルールの試合を行うのは余りにも闘いの本質とはかけ離れているために、王座の価値を凋落させること以外の何物でもない。ならば既存の王座とは意味合いが違う、むしろそれ専門の王座を新設する方が、確かに自然であり、適切といえるのかも知れない。

プロレス業界においての王者の価値

 つまりプロレス界にとって王座というものは、その団体の看板そのものなのだ。そのとき、誰が王者なのか、どんな選手が王者で、どんな闘いをしているのか、それによってその団体が今、どんな方向性を目指しているのか、その行き先がしっかりと見えてくる。それがデスマッチであれ、ゲーム性の高い試合の王者であれ、打ち出している王者によってその団体全体が評価されるのである。  王者が防衛を重ね、長期政権を築けば築くほど、その団体のそのときのテーマが明確になっていき、選ぶ側のファンも誰を、どの団体を支持するべきか、判断がつきやすくなる。強い王者、巧い王者、破天荒な王者、どんなタイプの選手が王者としてどんな防衛ロードを築いているのか、その答えこそが一番のプロレス団体としてのアピール方法なのである。  だが、その肝心の王者がコロコロと変わっていては、見る側の判断もつきにくくなる。これは意外に業界人が気付いていないことだが、そんな王座戦線が不安定なときこそ、その団体が迷走している何よりの証拠。安定した強い王者がいてこそ、プロレス団体は隆盛を極められるのだ。  過去の歴史を思い出してほしい、新日本や全日本、NOAHがドン底の状態にいたとき、王座戦線がどうなっていたかを。コロコロと王者が変わっていたり、団体の所属選手ではなく、外部の選手が王者になってはいなかっただろうか?逆に誰もがエースと認める所属選手が王者として長期政権を築いていたとき、その団体の人気はどうだっただろう? 『今、ウチの団体のウリはこれです!』  そうキッパリと示せる団体は、黙っていても人が集まってくる。逆に焦点が定まらずに迷走している団体は、ファンとの信頼関係が築けずに集客も不安定なものとなる。会場に行って払った料金相応にその時間を満喫できるのか、その見返りが見込めない興行など、誰が好き好んでお金と時間を費やしてまで会場に足を運ぶだろうか?バブルの時代のように金が有り余っているならいざ知らず、現在のようなデフレの時代には到底ありえない話である。  団体が打ち出しているものと、ファンが求めているものが一致すれば人は集まってくる。魅力的な選手が王者として輝いていれば、その団体としても興行を宣伝しやすくなるし、チケットも売りやすくなる。人にアピールしずらい王者など、会社の看板としては問題外。売り手と買い手の信頼関係の構築は、プロレスに限らず商売の鉄則なのである。

プロという言葉をどう解釈するか プロレスラーに一番重要なのは?

『プロレスラーにとって一番重要な要素はなんだと思いますか?』  貴方なら何と答えますか?  この答えは、恐らく人によってそれぞれ違うことだろう。そしてその答えによって、その選手が目指している選手像が浮き彫りになってくる。プロのレスラーである以上、誰よりも強く、誰よりもカッコ良く、誰よりも魅力的でなければならない。ファンの人々は自分よりも強く、自分よりもカッコ良く、自分よりも魅力的な存在にこそ、強い憧れや好意を抱く。そんな姿をリング上で魅せれることこそが、プロレスラーにとって何よりの価値となる。  まだ新日本と全日本の二大メジャー時代と呼ばれていた当時、新人レスラー募集の要項には身長185cm以上という厳しい条件が記されていた。かくいう私も中学生の頃にはプロレスラーになりたいという夢を抱いていたこともあったが、当時の日本プロレス界は身体が大きく、しっかりとした格闘技歴を持つ者しか入門できない、本当に狭き門だった。  実際、グラン浜田さんのようにメキシコにでも渡らない限り、170cm程度の身長でプロレスラーになることなど絶対にありえない。あの獸神サンダーライガーこと山田恵一さんでさえ、日本では無理だと考えて単身メキシコに渡り、当地でプロレス修行をしているときにグラン浜田さんの紹介で新日本プロレスの山本小鉄さんと出会い、その根性がかわれて新日本に入門できた、というほどだ。  そして仮に入門できたとしても、そこでは常人では耐えきれないほどの過酷な練習と、今では社会問題に発展しかねないような厳しい主従関係があり、心身ともに鍛え上げられていた。そこに何人入門してきたとしても、デビューまで生き残れるのは本当にごく僅かな、まさに闘いのエリート集団といえるのがプロレスの世界だった。だからこそ、プロレスとは"常人では為しえない怪物たちの闘い"として、その凄さを発揮していたのである。  日本においてのプロレスというものは、戦争に敗れた国の民・日本人が、戦争に勝利した国の民・アメリカ人をリングの上では空手チョップでバッタバッタとなぎ倒していく。そんな闘いがあったからこそ、戦後の日本人においてプロレスラー・力道山は偉大なスーパーヒーローとして君臨していた。  その存在力がどれほどのものであったのか、その時代を直に見ていない私でも容易に想像がつく。その力道山亡き後、愛弟子のジャイアント馬場、アントニオ猪木の二大スーパースターに受け継がれ、やがて鶴田、天龍、長州、藤波らの俺たちの時代、そして全日本の四天王、新日本の闘魂三銃士らが多少のスタイルの変化はあったとしても、プロレスのスゴさ、怪物性というものを脈々と受け継いでいった。  では現代のプロレスはどうだろう?決して批判するつもりはないが、強さ、スゴさ、常人では為しえない怪物性のある闘いという意味では、ちょっと道がハズレてきてしまっているような気もする。ではなぜそうなってしまったのか?選手の小型化、スリム化など身体的な見た目の問題もあるが、何よりも一番の問題点は、プロレスが勝負論よりも芸術性で語られるようになってしまったからだと推測する。 「お客さんに喜んでもらえるような、いい試合がしたいです」  完成されたトップレスラーが言うならまだしも、若手レスラーまでもが普通にそんな言葉を口にするようになった。本来、プロレスラーとしてリングに上がるために最低限必要な身体、技術、精神、それがしっかりと身に付いていないにも関わらず、観客を意識したコメントをしている。プロである以上、観客の目を意識するのは決して悪いことではない。だが、それ以前に貴方はプロレスラーとして恥ずかしくない試合がお客さんの前でできているのですか?と問いたい。何よりも、お金を払ってチケットを買って集まってきてくれたファンに見せるに価した姿をしているのですか?と。  現代は身体が小さくてもプロレスラーになれる時代である。今はメジャー団体であっても、かつてほどの厳しい入門条件はなくなっている。また、きちんとしたプロライセンスがある訳ではないので、リングに上がって試合の真似事をすれば、それで誰でも「私はプロレスラーです」といえる時代になってしまっている。他に本業を持ちながら、ちょっと身体を鍛えた人間が平然とプロレスラーを名乗ることができる時代であるのだ。  だからこそ、あえて苦言を呈したい。プロレスラーを名乗っている貴方は、周囲に闘いを生業とする人間だと一目で納得してもらえるような身体と見映え、そして技術を持ち合わせていますか?と。それが備わっていない者は、私はプロレスラーとして認めない。別に私に認められなくても、その人はまったく気にしないだろうし、これからもプロレスラーを自称することでしょう。もちろん、私がプロレスラーと認めない人にも、その人を支持するファンの人たちもいるでしょうから、あえて誰がどうだとか、どこの団体がどうかとは言いません。それはそれで仕方のないこと。でもあえて言わせてもらいます、現代のプロレス界はプロレスラーもどき、プロレスごっこが蔓延していると。  かつてのプロレス界は、前座戦線では使える技が限定されていた。本当にデビューしたての新人選手が使える大技らしい大技はドロップキックと逆エビ固めくらいのもの。それでもその技の威力を最大限に活かすための基礎的な動き、攻める基本技を各種持ち合わせていた。逆に言えばそれを持ち合わせていない者はプロレスラーにあらず、デビューさせてさえ、もらえなかったのである。だからどんな選手でも自分の最大の決め技、フェバレット・ホールドに持ち込むための繋ぎ技を重要視していた。勝利への方程式がしっかりとしていたからこそ、安易に大技を連発しなくてもファンの心を掴むことができたのである。  相手に勝つことこそがプロレスラーにとって最大の目的、そして喜びだったはずである。その必死な姿勢がある闘いだからこそ、ファンも本気で感動してくれる。いい試合、素晴らしい試合、それは闘っている選手たちの本気で勝ちたいという気持ちがぶつかり合う闘いだからこそ、生まれるものだろう。お客さんを喜ばせたい、お客さんを感動させたい、その気持ちが先走って勝負論が二の次になっていたら、それは本当にプロレスなのだろうか?それもプロレスだという人もいるだろう。でもあえて私は言わせてもらう、それをプロレスだとは思わない、プロレスもどき、プロレスごっこだと。

インディーが生み出した功罪!? ウケることを優先した闘いの是非

 剛竜馬のパイオニア戦志、大仁田厚のFMW、浅井嘉浩のユニバーサル・プロレスがファンに根付いたことで、日本のプロレス界にもインディー団体が認知、定着されるようになった。FMWによってプエルトリコマットで人気のあったデスマッチ路線、ユニバーサルによってメキシコ流のプロレス=ルチャリブレが、パイオニア戦志によってスター選手がいなくてもファンに楽しんでもらえるプロレスができると証明されたことで、プロレスは限られた選手にしかできない格闘エリート集団ではなくなっていった。  こう書くと私がインディー否定論者かと思われるかも知れないが、決してそうではない。インディーの成功によって身体の小さい者でも"プロレスラーになりたい!"という夢を現実のものに叶えられるようになったし、何よりスタイルの幅が広がったことでプロレスの魅力が増し、ファンの拡大に繋がっていった。実際、デスマッチやルチャ、そして3WAYマッチや変型バトルロイヤルを見ていても、本当に楽しいし面白いと思う。それでも、それは日本プロレス界にとって、あくまで亜流であって本流ではない。様々なスタイルがあっていいと思うし、むしろなくなってほしくはない。だが本流が亜流に呑み込まれてしまっては、それは本末転倒である。   かつてのインディー団体はメジャー出身の選手が起こしたものであり、後に入門してきた若手選手にもしっかりと基礎を学ばせ、新人時代にはベーシックなプロレスらしいプロレスをやらせていた。だからこそ、インディー生え抜きのハヤブサや田中将斗など、正統派のプロレスをやらせてもデスマッチやハードコアマッチをやらせても、一流のプロレスラーとして誰にも認められる選手が育っていったのである。大日本プロレスもかつてはデスマッチ団体という印象ばかりが強かったが、関本大介、岡林祐二らの台頭によって、どこの団体に出ても充分に通用するストロング派の実力者として、今では万人に認知されている。  またルチャにしても従来のアメリカ式プロレスとは基本は違うが、ただ飛ぶだけの単純なプロレスではないことは、本場メキシコの試合を見れば分かること。ジャベと呼ばれるメキシコ流のサブミッションの数々は、まさしく見る者を唸らせるプロならではのテクニックといえるだろう。  つまり何が言いたいかといえば、どんな世界でも大事なことは、"基本があってはじめて発展がある"、ということだ。メジャーであろうとインディーであろうと、プロレスの本質は闘いであり、しっかりとした基本を習得した上でやらなければ、それはもうプロレスではない。基本を省いて、もしくは基本を無視して見てくれのいいことだけをやっているものは、それはごっこやもどきである。ではなぜ、そんな安易な道に走ってしまうのか、それはプロであるが故の、悲しい運命とでもいえばいいのだろうか?  新日本、全日本の二大メジャー団体時代、若手選手は将来トップレスラーになるために強くなることだけを目指して日々精進していた。一流選手になるために己を磨いていく、それこそが若い自分のやるべきこと、プロの興行として試合が行われている以上、チケットを買って見に来てくれるお客さんがいなければ、自分たちの職業は成り立たない。だが二大メジャー時代、一部のトップレスラーはともかく、若手選手がその日の客入りまで考えて試合している選手はまずいなかっただろう。その日のお客さんが多いか少ないかぐらいは考えていたかも知れないが、では少ないからといって自分のスタイルをどうこうしようとまでは考えていなかったはずだ。  強くなることがトップレスラーになるための条件であり、お客さんにウケることがトップレスラーになるための条件、と思っていた選手はいないはず。だから新人時代にはパフォーマンスなどをすることもなく、ひたすら相手にダメージを蓄積させ、自らのフェバレット・ホールドに繋ぐことだけを考えた。そして守勢に回っているときもしっかりと受け身をとり、いかにして最小限のダメージに抑えて反撃に移るか、実戦の場で基礎を完全習得することこそが与えられた使命だったのだ。  だが、インディー団体となるとそうもいってられない。出場するだけで満員になる圧倒的な看板選手がいる訳ではないため、若手選手にとっても目の前の闘いだけに集中できる環境にはなっていない。それは観客が一人増えるか増えないか、その違いが自分たちの死活問題となってくるからである。自分たちがプロレスラーとして成長するために必要なことよりも、お客さんに喜んでもらうために必要なことを優先させているため、とても闘いとは思えない光景がリング上で展開されているのである。  プロである以上、お客さんを意識して闘うということは大事なことである。だが必要以上に意識しすぎると、客ウケばかりを考えたアクション、パフォーマンスが多くなってくる。本来、闘っている相手に大したダメージを与えてもいない試合序盤に、相手に背を向けて観客にアピールすることなど、まさに愚の骨頂。戦の場で『どうぞ、お好きに攻めてください』と自らの首を、敵に差し出しているようなものだ。それを平気でやってのけ、その相手も攻めることを躊躇するなど、茶番以外の何物でもない。「いいから攻めろよ」という観客のぼやきが、果たして耳に届いているのだろうか?  闘いそのものよりも客ウケを優先させた攻防が持て囃されることにより、プロレスは本当に何でもありのカオス状態になってしまった。人によっては、『プロレスとはそもそもそういうものだ』という人もいるかも知れない。しかしどんな世界にだって基礎があって始めて発展がある。お笑い芸人がお客さんを笑わせているのか、それとも嗤われているのか、これは同じようでも大きな違いである。漫才にしてもコントにしても、そこには考え尽くされた計算と積み重ねてきた稽古があって始めて成り立つもの。一発芸でたまたまウケた芸人は、あっという間に消え去っている。プロレスラーにしても、コミカルな試合をするのもいいが、それはサーカスにおけるピエロのように、本当の実力があって始めて成り立つことは忘れてはいけない。  インディー団体の乱立が当たり前の時代になり、どんな人間でもちょっとした努力でプロレスラーになれる時代になった。それは業界の底辺拡大とさらなる発展を考えれば、決して悪いことではない。しかし、しっかりとした基礎も習得せずに、大技とパフォーマンスだけで平然とプロレスラーを名乗り、また周囲も何でもプロレスとして認めてしまう傾向は決していいことではない。身体的にも技術的にも、そして精神的にも、最低限のレベルを得て始めてプロレスラーを名乗ってほしい。そうでなければ将来、プロレスという分野が消え去ってしまいそうな気がする…。

メジャー団体の条件、 それは興行規模だけでは語れない

 プロレスが後世にも生き残っていくためには、やはりメジャー団体がその培ってきた歴史と伝統を、しっかりと受け継いでいかなくてはならない。世間一般では興行規模だけでメジャーかインディーかを判別する傾向にあるが、私はそうではないと思う。どんなに選手層が厚く、大会場で興行を打っていたとしても、とてもプロレスとは呼び難い試合をリング上で見せているようでは、それをメジャー団体として認める訳にはいかない。プロレス界にとって継承すべきものを受け継いでいるかどうか、そこが最大の問題なのである。  新日本の一強時代といわれる現在の日本プロレス界において、それに次ぐ団体は興行規模だけで考えれば幾つかの名前があげられるが、その受け継いでいるものの重要さ、試合スタイル、選手個々の身体的&技術的レベル、全国的な知名度などを総合して考えると、やはり全日本とNOAHになるだろう。ドラゴンゲートなどは団体そのものの総合力、そして選手のアスリートとして、パフォーマーとしての能力はかなり高いが、どうしても身体のサイズ(上背だけでなく、厚みなども含む)からくる怪物性の薄さがマイナス・ポイントになってしまう。やはりプロレスは非現実的な闘い、強さの象徴であってほしいからだ。仮に背が低くても、プロレスラーならば、見た目だけでも"コイツは絶対に強い!"と思われる存在であってほしい。それなくして、真のメジャーな存在にはなれないと思う。  だから私の独断と偏見でいえば、やはり日本プロレス界の三大メジャー王座はIWGP、三冠、GHCになってくる。現在の全日本とNOAHは「メジャー団体だ!」と言い切れない要素もあるが、それでも受け継いでいるものの価値を考えれば、その他の団体にはないものを持ち合わせている。 その価値こそがプロレス界を代表するに値するものであり、これからも後世に受け継いでいってもらわなくてはいけないものだからだ。  ということで、ここからはその三大メジャー王座に絞って話を展開していきたい。強いてはそれがプロレスの王者に必要な資格、そしてプロレス界を引っ張っていく者になるための条件を語ることになる。そう思ってもらって間違いないだろう。

2019年の王者たちへの私的評価

 まずその筆頭となるのは、もちろん最大の老舗であり、一人勝ち状態といわれる新日本プロレスだ。知っての通り、現在の新日本にはシングルだけでもIWGPヘビー、IWGPインターコンチネンタル、IWGP US、NEVAR無差別級と4本ものベルトが存在している。そもそも、IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)の理念は乱立するタイトルの世界統一となっていたのだが、それと相反する現状には燻しがるオールドファンも多い。ではなぜ、こんな状態になってしまったのか、まずはそこから注目してみたい。  かつての新日本は創始・アントニオ猪木を筆頭に、"キング・オブ・スポーツ"、"ストロング・スタイル"を旗印に、文字通り最強を求めた闘いの歴史を築いていった。 特に猪木によるプロレス外の一流アスリートと闘う異種格闘技路線は爆発的な人気を呼び、"プロレスこそ最強"というスローガンと共に熱狂的な『猪木信者』に支えられていた。だがプロレス内のベルトに関しては、世界一といわれるNWA王座に終生のライバルといわれる馬場・全日本に独占されており、その対抗策として掲げられたのが世界統一IWGP構想だった訳だ。  そのため、第一回のIWGPは王座新設ではなく、世界各地の予選を勝ち抜いた代表者が集結して覇権を争うリーグ戦であった。それでも、ホーガンやアンドレを始めとした豪華な顔触れには、世界統一という旗印にふさわしい華やかさがあったといえよう。そして第二回以降にタイトル化されてからも猪木、藤波、長州、そして闘魂三銃士らが繰り広げる激戦の数々によって、IWGPの価値は深く日本プロレス史に刻まれてきたのだった。  しかし、グレイシー一族を代表とする総合格闘技旋風が日本に吹き荒れると、その影響をモロに食らったのは"プロレスこそ最強"を謳う新日本であった。総合マット、そして自軍のリングでもトップ選手が次々と総合格闘家になぎ倒されたことにより、新日本の最強伝説は崩され、団体消滅の危機にまで晒されていくのである。そこで新日本がとった策は、期待の新鋭・棚橋弘至、中邑真輔らによる世代交代。そしてNWAに代わって世界最大手団体となっていたWWF(現在はWWE)を意識した、メジャー・プロレス路線の確立であった。  株式の売却により何度かの親会社変更を経て、リング上のみならず経営陣も刷新することで、その後の新日本はまさに起死回生のV字回復を果たし、日本プロレス界の盟主の座にも復帰。現在の一人勝ち状態を築くに至っている。そしてその野望は日本から世界へ向けられ、世界最大手のWWE越えをも狙っている。実際、昨年はアメリカ本土のみならず、英国でも興行を開催。かつては夢物語の1つだったニューヨークのMSG大会まで成功させたのだから、本当に大したものだ。だが現在の大躍進は業界全体にとっても喜ばしいことである反面、一部ではWWEを意識しすぎる路線への不満の声が根深く残っていることも決して忘れてはならない。  そもそも、現在のWWE(ワ―ルド・レスリング・エンターテインメント)はその名称をWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)から変更したことも重なり、よりエンターテインメント性を重視し、闘いそのものよりもドラマ性やスキャンダラス性を尊重している。いわば本来の新日本のポリシーとは対局に位置する存在なのだ。だから平気でベルトも乱立させるし、ゲーム性の高い試合でもアッサリと王座が移動する。勝負論よりも"楽しければヨシ"という世界である。その価値観を新日本の闘いに持ち込めば、当然、過去の歴史との矛盾が生じる。それでも、世界進出を意識している今の新日本にとってはYESなのかも知れないが、誰もがその現状に納得しているかといえば、またそれも違うような気がする。

業界の盟主・新日本の行先は? オカダカズチカの真価を問う

 現在の新日本は、"世界で最も芸術性の高いプロレス"をやっている気がする。その高等技術を駆使して繰り広げられているプロレスは、他の追随を許さないレベルを維持していると思う。だがしかし、そのレベルを意識するあまり、プロレス本来の力強さ、重厚さというものがどうにも感じられない。そもそも、ストロング・スタイル こそが新日本最大のウリであったはずが、その本質を見失っているのではないか?という内容になっている気がするのだ。ただそれでも、会場に多くのお客さんが訪れ、またそのお客さんが皆、満足し、誰もが納得している形で現在が進行しているのなら、それはそれで構わない。それでも、そうとは思えない現象が見えるからこそ、現在の新日本は重要な岐路に立たされている気がしてならない。  思い出してほしい、昨年、行われた『ヤングライオン杯』のことを。ここで多くの注目を集め、高い評価を得ていたのはどんな選手たちであったかを。その答えは、上野毛道場で鍛えられた新日本の若獅子たちではなく、LA道場で柴田勝頼によって鍛えられた若き外国人選手たちであった。彼らのスタイルはまさしく『最後のストロング・スタイル』といわれる柴田勝頼の遺伝子そのもの。無駄なパフォーマンスやアピールを排除し、勝負に徹するひたむきな姿勢、それこそが本来の新日本らしさ、闘い以外のなにものでもない。  そんなファイトに徹した青い目の若獅子たちが高い評価を得た、それこそが現在の新日本に何が求められているのか、その答えに直結するのではないだろうか?現在の新日本が、海外ファンの支持を高めようとWWEを意識した試合や抗争を展開している中、一部の選手やファンたちがフラストレーションを高めている、それが現状の問題点のような気がする。いや一部ならいいが、その数がさらに増えていくような予兆すら感じるからこそ、これからの新日本が本当に問われてくるのだ。  現在の新日本の主流はオカダ、内藤、ホワイトら、受け主体のスタイルが中心の選手たちである。かつての旧体制への決別、新体制への移行に伴って棚橋、中邑らが築き上げてきた路線を、オカダが中心になってこれに続く選手たちと見事に花開かせた形である。それ自体は実に喜ばしいことであり、決して悲観することではない。だが日毎に高まっていくらしさの喪失は、長い目で見て本当にこれでいいのか?という気にさえなってくる。確かに上昇気流にのっているときはそれでいいだろう、だがもし下降線をたどりだしたとき、にわかファンは去るのも早い。そんなときに根強く残ってくれるのは、本当に古くから支持してくれているファンの人たちだ。そんなオールドファンから見て、昨年を通して王者として新日本を牽引してきたオカダはどう映っていたのだろうか?

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